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10月16日
本殿(木造銅瓦明神造 6,1㎡) 拝殿(木造瓦造 26,4㎡) 一ノ鳥居(石造明神鳥居) 二ノ鳥居(石造明神鳥居)
1,587㎡
かつらぎ町西飯降
当神社は、七神を祀り古来丹生七社大明神とも称せられてきた。
慈尊院にあり初め弘法大師が天野明神を勧請して祀った官省符庄の総氏神丹生七社大明神(現丹生官省符神社)を西飯降のこの地へ勧請して祀ったのに始まる。
四社明神は多いが七社明神は稀である。
官省符庄とは、現在の橋本市の神野々、山田、吉原から西、かつらぎ町の佐野、広浦から東の川北全部の村(現大字)と川南の九度山、入郷、慈尊院とを合わせた庄園で、今からおよそ900余年前に成立された。
高野寺領の中ででも最大のものであった。
毎年秋、9月晦日(旧暦)は秋祭の官省符祭(俗に カンジョボマツリといった)で、庄内各村々から6尺余の幣、榊を捧げてねりこみ、神輿も出て慈尊院の社前は善男善女でにぎわった。
秀吉が天下統一した時、川北全村(入郷含む)は寺領から没収されて、以後藩領になったが、この祭礼は長く明治の初期まで続いていた。
宝永元(1704)年の祭礼は正遷宮でにぎわっていたが、この日大事件が勃発した。
奉納能舞台の事で慈尊院村惣代中橋勘之丞の不公平な借置に憤激した藩領方27ヵ村の庄屋は、挙ってこの祭礼から脱退、独立を宣言したのである。
同神同名の西飯降で祭礼を行なうことになった。
次はこれに関する郡代官の文書である。
「覚 来る二十九日灌頂府(官省符)の祭礼去年通り西飯降にて執行の筈なり、それにつき申すに及ばず候へども、諸事費えがましき儀ましてこれなき様に、且又神事の儀式等は慈尊院にて相勤候通り、大野村与惣右衛門、妙寺村六郎兵衛諸事肝煎支配致し候様申し渡され候、もっとも庄中の者その段きつと申し聞かすべく、よって件の如し 九月二十四日(『高野口町誌』「西山家文書」)」
これは大庄屋宛の文書であるが、この指図に従って妙寺村下村六郎兵衛と大野村西山与惣右衛門両惣代が諸事段取して、慈尊院での例に従って西飯降の社前で27カ村が集まって祭礼が行なわれたのであった。
この紛争は15年後解決して元通りになったが、これによって当神社の由緒の一端を知ることができる。
慈尊院と西飯降の同じ神が同じ名でやや斜に向い合った形で鎮座しているのも由ありげである。
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