和歌山県神社庁は「万葉集」にも詠われる和歌浦の地にあります。

和歌山県にある神社を総合的にご紹介【和歌山県神社庁】

和歌山県神社庁

和歌山県の総合神社紹介【和歌山県神社庁】

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宝神社

宝神社 たからじんじゃ

  • 井口 健佑
  • 〒649-0011
    御坊市湯川町大字財部865番地
  • 0738-53-0630又は0738-22-6735又は0738-23-0404
  • 若一王子 保食神 天照大神

大物主神

11月3日

本殿(鉄筋コンクリート流造 6,11屐 式殿兼拝所(鉄筋コンクリート造 10,83屐 社務所(鉄筋コンクリート造 23,20屐 鳥居(石造明神鳥居 2基)

696屐“地101

御坊市湯川町大字財部(上財部・中財部・下財部・新田・三軒家・東財部)

当神社鎮座地は財部の里と呼ばれ、ほぼ日高平野の中心部に位置している。
その財部の里は昔は入江の港に近く、海上輸送に依って物が運ばれ陸揚げされた海上交通の要衝の地であったと云われ、鉄、銅、銀等の金属類も舟で運ばれて来たと言い伝えられてきた。
以前は鍛冶職人や金属に関する仕事、鋳造に関する仕事に携わる人々が多く住まれていたと云われ、従って、この地を「財部」と呼ばれる様になったものと思われる。
最近迄、その仕事の過程に出来る遺物の塊が出土されていたと云う事は、その証しであろうと思われる。
さて、この地を「財部」又は「宝」とよばれるようになったのは何時の頃からかと申すと随分古くからと思われ、文献として『紀伊続風土記』に依れば「建暦文書」に「宝と既にみえ」と記されており、「建暦」とは源實朝の時代で、今から約800年程前の事である。
降って「慶長」の検地帳には「財」と記されており、「慶長」は今からざっと400年程前であり、「宝」や「財」と云う地名はかなり古くから呼ばれて来た事はうかがい知ることができる。
『続日本紀』によると、その中に「阿堤、飯高、牟漏」より平城京に銀と塩が献上されたと記されている。
銀を献上したと云う事は近くに銀の鉱山もあるわけでもなし、当日高地方でとれる「水銀」であろうと云われている。
しかし一説には、熊野地方の古い文献に依れば、熊野の紀和町楊子地方で昔、銀が採取され、徳川時代に入り、巡検使が常に目を光らせていたとの記録があるそうで、その事から考えると、古老の言い伝えによる、熊野地方から銀を舟で運んできて、財部郷で製錬して平城京に献上されたと云う事も、或いは頷ける点もあるかと思われる。
さて、当地の産土神として亦、金属財宝守護の神として創建され、「宝神社」として発足したのは、年代は定かではないが延宝6年の日高鑑に依れば「王子社」とあり、『南紀神社録』に依れば「財部王子社」と記されている。
御祭神の1座に若一王子(にゃくいちおうじ)とあり、若一王子と呼ばれる神様が祀られておられると言う事は、熊野地方との関係の深さをうかがい知ることが出来る。
熊野地方から銀銅等の材料を舟に積み込んで財部郷で陸揚げし、それを財部の地で製錬し、銀や銅を延べ棒にして堺に送り、堺で貨幣に鋳造して銅貨銀貨等が造られたと古老の言い伝えが今も残されている。
それは徳川時代に入って盛んとなり文化文政時代が最も繁盛した時代であり、当時は神社の土地も広く、祭礼も隆盛を極め、土地の者はもとより堺の業者からも多くの寄進もされ、鳥居、手洗舎等に刻まれた文字にその名残を留めている。
その後明治42年、時の政府の神社合祀令により地内の小祀を合祀し発足したが、敗戦から更に昭和28年大水害に遭い、更に昭和36年第二室戸台風に依り社殿は倒壊、昭和41年4月ようやく現在地に移転再建された。
平成10年頃より祭礼行事も徐々に執り行なわれる様になり、年経る毎に盛んとなり、祭礼行事も地区内あげて執り行なわれる様になってきた。
全国に神社の数は約8万社の多きを数えるが、「宝」と1字だけの名の付く神社はあまり見当たらない。
希なる由緒を持ち、意義ある土地に鎮座する宝神社はその名に適はしく、歴史の重みの中に再び明日が見えてきている。

写真情報

和歌山県神社庁  /  〒641-0022 和歌山市和歌浦南3-4-10  /  電話 073-446-5611

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