和歌山県神社庁は「万葉集」にも詠われる和歌浦の地にあります。

和歌山県にある神社を総合的にご紹介【和歌山県神社庁】

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和歌山県の総合神社紹介【和歌山県神社庁】

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西岩代八幡神社

西岩代八幡神社 にしいわしろはちまんじんじゃ

  • 亀井 隆行
  • 645-0014
    日高郡みなべ町大字西岩代523番地
  • 0739-72-4573(鹿島神社)
  • 品陀別気命 足仲彦命 息気長足姫命

里神神社(伊邪那伎命・伊邪那美命) 祓戸神社(祓戸四柱の大神) 愛宕神社(火産霊之神) 稲荷神社(倉稲魂之神) 王子神社(天照大神・海士出男命) 天神社(菅原道真公)

10月第2日曜日

明治の頃より大正にかけては徴兵のがれの祈願祭を毎年つづけられていた。戦後は厄除祈願祭とし投餅行事をつづけている(1月13日)

岩代王子跡(県指定・史跡)  西岩代八幡神社回舞台(県指定有形民俗文化財)  岩代の子踊り(県指定無形文化財)  岩代王子社御神像(町指定美術工芸)

本殿(木造柿葺春日造 3,3屐 拝殿(木造銅板葺入母屋造 16,5屐 長床(木造瓦葺入母屋造 51,1屐 社務所(木造瓦葺入母屋造 46,2屐 回舞台(木造瓦葺入母屋造 111,5屐 鳥居(石造明神鳥居)

7,243.095

みなべ町大字西岩代(戸仲・西中村・伏山・向山)

岩代の地名は岩石信仰から名付けられたともいわれ、中皇命も「君が代も吾が世も知るや磐代の岡の草根をいざ結びてな」(『万葉集』巻一)と歌を詠まれている。
また、有間皇子も当地で、自分の行末を祈られた歌はあまりにも有名である。
したがって古くから当地に神社があったと思われるが、当社の歴史についてはあまりはっきりしない。
宝暦10(1760)年6月の『両岩代大指出帳』の西岩代村の条に「八幡宮、旧坂本と申所に社御座候社内に小宮二社、往古より末社の由申伝へ候共何神とも相知れ不申候」とあり、また『紀伊続風土記』に「八幡宮、境内周二百四十間、本社三社、神楽堂、拝殿、中村にあり一村の産土神なり」と記している程度である。
明治41(1908)年10月、神社合祀令によって岩代王子神社をはじめとした小社を合祀した。
現在、社殿として宝永3(1706)年再建の神饌所兼社務所、近郷では珍しい廻り舞台のある長床、絵馬堂などがあるほか、末社としては祓戸神社・里神社・王子神社がある。
なお祭礼には「岩代の子踊り」が元禄年間(1688―1704)より奉納されている。
(有間皇子結松記念碑について)
有間皇子結松記念碑は、岩代の国道42号線のすぐ側にある。
碑は高さ1m90僉幅1m35僉表に蘇峰学人の文字で「有間皇子結松記念碑」と刻み、裏には「岩代の浜松が枝を引き結び 真幸くあらばまた皈りみむ」「家にあらば笥に盛る飯を草枕 旅にしあらば椎の葉に盛る」の2首を彫りつけている。
有間の41(658)年11月9日早暁、今の奈良県生駒郡南生駒の有間皇子邸は、天皇の重臣蘇我赤兄の率いる一隊の包囲をうけ、皇子は捕えられて時を移さず、天皇が行幸している紀伊国牟婁の湯(今の白浜町湯崎温泉)へ送られた。
謀反の容疑であった。
大和から牟婁の湯まで道程70里(280辧法一行は強行軍を続けて岩代にあたりは11月10日ごろ通られたようである。
岡の上からは海をへだてて、はるかに天皇と中大兄皇子の在す牟婁の岬が望まれた。
しかし今は捕われの身の皇子には、辺りの風光を鑑賞するゆとりはなかった。
身のあかしを立てて謀反の容疑をはらさねばならなかった。
皇子は岡に立って松の枝を結んだ。
物を結んで身の無事を祈るのは、そのころの風習であった。
岩代の浜松が枝を引き結び……家にあらば笥に盛る飯を草枕……憂いにとざされた皇子が思わず口ずさんだ歌であった。
しかし、皇子の申し開きは容れられず、その15日、藤代峠において19才の生涯を終えられた。

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